格言:「良いところを見よう」は冷酷な選別だ。
真の温かさは“闇”を抱える覚悟に宿る
今日の格言
「ひとのよいところに目を向けるべき、という考えは冷たい。」
──それは優しさではなく、
自分の認識能力で切り取れる範囲だけを“人”と呼ぶ態度だからだ。
「人の良いところに目を向けましょう」。
この言葉は、学校や職場で耳にタコができるほど聞かされる道徳的なスローガンです。一見すると、これ以上ないほど優しく、慈悲深い態度のように思えます。しかし、この思考法は使い方を一歩間違えると、人を最も冷たく、残酷に扱う凶器へと変貌します。
なぜ「良いところ探し」が冷たさになり得るのか? 本当の「温かさ」とは何なのか? 人間理解の構造から紐解いていきましょう。
1. 「よい/わるい」は世界の性質ではない
まず前提として、残酷な事実を直視する必要があります。「良い」「悪い」というラベルは、その人の本質(プロパティ)ではありません。それはあくまで、観測者であるあなたの主観(都合)にすぎないのです。
【ここにある冷たさの芽】
「良いところを見る」という宣言は、裏を返せば「自分が“良い(都合がいい/理解できる)”と判断できた部分だけを、その人の代表として採用する」という傲慢なフィルタリングです。
2. 「よいところだけを見る」は、認識放棄である
人間の本当に価値ある部分、あるいはその人をその人たらしめている要素は、たいてい分かりにくく、すぐには「良い」と判断できない場所に潜んでいます。
- 誰にも言わずに飲み込んだ我慢
- 未熟さを自覚しているからこその静かな誠実さ
- 過去の失敗から防衛的に身につけた思考の構造
- 相手を傷つけないための言葉にならない配慮
これらは、見る側に高度な「理解力」「想像力」、そしてネガティブに見えるものを受け止める「耐性」を要求します。
「良いところだけ見ればいい」というスタンスは、この高カロリーな理解のプロセスを放棄し、理解不能な部分を「見えない」のではなく「無いもの」として抹消する行為です。ここで、人は静かに切り捨てられます。
3. 条件付きの優しさは、いちばん冷たい
良いところが出ている時だけ評価され、未熟さや矛盾が出た瞬間に「そんな人だと思わなかった」と距離を取られる。これをされた側はどう感じるでしょうか?
「ちゃんとしている時しか、人として扱われない」
これは励ましでも優しさでもありません。それは「管理」であり、「選別」であり、相手を自分の快適さのための「道具」として見ているに過ぎません。条件付きの肯定は、相手に常に「演じること」を強要する、最も冷たい檻なのです。
4. 温かい人は「評価」より「理解」を選ぶ
本当に温かい人、器の大きい人は、人を「良い/悪い」で切り分けません。彼らは常に「状態」として人を観測しています。
冷たい見方(評価)
「彼は短気だ(悪い)」
「彼女は優しい(良い)」
→ ジャッジして完了。
温かい見方(理解)
「彼は今、余裕がない状態だ」
「彼女の優しさは、恐怖心から来ているかもしれない」
→ 背景を含めて構造を見る。
彼らは「理解」と「同意」を明確に分けています。
だから、肯定しなくても、賛成しなくても、無理に距離を詰めなくても、相手の存在そのものを否定したり壊したりすることがありません。ただ「そうある」ことを許容できるのです。
5. 温かさの正体:能力としての包容力
結論として、「温かさ」とは感情の豊かさではありません。
それは一種の知的・精神的な「能力(スキル)」です。
- A 自分の主観(快・不快)を一度脇に置き、相手を評価せずに観測し続ける持続力。
- B 「自分の理解力など、一人の人間を完全に切り取れるほど高性能ではない」と知っている知的な謙虚さ。
Conclusion
「ひとのよいところに目を向けるべき」という言葉に逃げないでください。
それは時として、理解できないものを切り捨てる言い訳になります。
本当の温かさとは、光(長所)を探すことではありません。
相手の中にある闇(矛盾・未熟さ)を含んだまま、
あなたが立ち位置を変えずにそこに居続けること。
それができる人だけが、本当に人に温かいのです。
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