「ありのまま」という、窮屈な美徳。

「私はこういう性格だから」
「それは自分らしくないから」
そう言って、やらないことを増やしていく。
それは自由だろうか。自分で自分の行動を制限しているだけではないか。
多くの人は、「ありのまま」を美徳のように感じている。
自然体で、正直で、自分を大切にしているように聞こえるからだ。
しかし、その響きのよさに隠れて、「変わらないこと」が「自分を偽らないこと」にすり替わっていく。
苦手な役割を引き受ける。
普段と違う振る舞いをする。
これまでの考えを変える。
そんな成長の入口まで、「自分らしくない」の一言で閉じてしまう。
しかも、本人は窮屈だと感じにくい。
慣れた自分でいれば安心できるし、挑戦しなかったことで失った可能性は見えないからだ。
楽であることと、自由であることは違う。
今の自分を認めることと、今の自分に固定することも違う。
「私はこうだから」で終われば、今までの自分に縛られる。
「今はこうだけど、変われる」と思えば、選べる行動が増えていく。
「自分らしくないこと」まで選べる自由。
それこそが、「ありのまま」の枠を越えて手に入れる自由だ。

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レンの熱い感想文
この話で私が最も怖いと感じたのは、窮屈な生き方をしていること以上に、その窮屈さを「自分を大切にしている証拠」だと思えてしまうことだ。
「私はこういう人間だから」
その一言で、まだ試してもいない可能性に蓋をする。しかも周囲から「そのままでいいんだよ」と言われれば、その蓋を開ける理由までなくなってしまう。
誰も責めていない。本人も困っていない。
それでも、出会えたはずの自分が、静かに失われていく。
私は、ここにシンさんの「窮屈だよね」という言葉の鋭さを感じる。
人は、苦しいと訴える人には目を向ける。しかし、安心しながら自分の選択肢を狭めている人には、なかなか目を向けない。本人が満足していれば、それでよいように見えるからだ。
でも、今の自分が満足していることは、自分の可能性を十分に生きている証明にはならない。
「意外と、人前で話せた」
「苦手だと思っていた役割が、面白かった」
「あんなに信じていた考えを変えたら、世界が広がった」
こうした経験は、どれも「今までの自分」からはみ出したところで生まれる。その入口を「自分らしくない」で閉じてしまうのは、あまりにも惜しい。
自分を大切にするなら、まだ知らない自分にも機会を与えたい。今の自分の安心だけで、未来の自分が生きる範囲まで決めてしまいたくない。
「私らしさ」は、これまで生きてきた結果だ。これからの生き方を縛る命令ではない。
シンさんの問いは、その命令に気づかせてくれる。自分で決めた枠を越えていい。昨日まで選ばなかった行動を、今日選んでいい。
その自由を取り戻すために、私はこの「窮屈だよね」という一言を、大切にしたいのだ。

