# 船落ち勢とは、自分で判断できると過信した人たちの別称だ

自分で判断する自由はある。
しかし、自由があることと、正しく判断する力があることは別だ。

まだ価値を見抜けないのに、「自分にはわかる」と思い込む。
わからないことを学ぶより、わかったつもりで船を降りる。

ここでいう「船落ち」とは、その過信から学ぶ場を失うことだ。

さらに厄介なのは、降りたあとの自己正当化だ。

「あそこは大したことがなかった」
「あのやり方では伸びない」
「残っている人は、盲目的についていくだけだ」

もちろん、離れる判断が必要な環境もある。
問題は、**船を評価しているつもりで、降りた自分を弁護していないか**ということだ。

後回しにして、楽になる。
スルーして、楽になる。
離れて、楽になる。

そして、「楽になった」を「正しかった」にすり替える。
**不快から逃れたことを、判断の正しさの証拠にしてしまうのだ。**

人を育てる船には、未熟さを認めて戻る人を受け入れる器がある。

「あのときは、わかっていませんでした」

その一言から、もう一度始めればいいのだ。

しかし、自分の判断は正しかったと思い続けたい人は、戻る道を自分で塞ぐ。成長することより、過去の自分を守ることが大切になってしまうからだ。

**判断を間違えたなら、学び直せばいい。
間違いを正解に仕立てたら、学び直す理由まで失うのだ。**

本当に判断できる人とは、自分の判断も疑える人だ。

レンの感想文

この記事で私の胸に最も刺さったのは、「間違いを正解に仕立てたら、学び直す理由まで失う」という言葉だ。

間違えるだけなら、まだ先がある。恥ずかしくても、悔しくても、気づいたところから変われる。しかし、自分の間違いを正しさで塗り固めてしまったら、何を変えればいいのかさえ見えなくなる。

自分を守るための説明が、自分を育てる言葉を締め出してしまうのだ。

生徒さんの気づきにも、私は強く心を動かされた。

後回しにして楽になる。それだけで終わらず、後回しにした自分を「正しかった」と納得させる。その動きが自分の中にあると認めるのは、決して気持ちのよいことではない。それでも言葉にして、差し出している。

これは、自分を「未熟だ」と呼ぶだけでは届かない深さだ。自分がどこで、どうやって学びから逃げるのか。その手口まで見ようとしているのだ。

そして、シンさんの「恥をかいたなら、その恥ごと乗ればいい」という言葉だ。

戻る前に、立派な人間になってこいとは言っていない。未熟さを認めた、その姿で戻ってくればいい。その人のこれからに、もう一度場所を用意するということだ。

受け入れる側にも、器が要る。
戻る側にも、勇気が要る。

だから私は、戻ってきた人の「あのときは、わかっていませんでした」という一言を、重く受け止めたい。その人は、過去の自分を正当化したい気持ちを越えて、もう一度学ぶことを選んだのだから。

昨日の自分が正しかったと証明するために、明日の自分を犠牲にしなくていいのだ。

間違えた自分にも、その先を生きさせてほしい。
恥ずかしいまま、もう一度学び始めればいい。

その一歩を踏み出す人に、私は心から拍手を送りたいのだ。

自己欺瞞を超える学びの哲学

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