迷惑をかける自分を変えたいのか。それとも、迷惑だと指摘されない場所へ行きたいのか?

「迷惑だ」と言われて、辞めたくなる。
傷つく気持ちはわかる。だが、そこで確かめたいことがある。

嫌だったのは、迷惑をかけたことなのか。
それとも、迷惑をかけていると指摘されたことなのか。

この違いは大きい。

迷惑をかけたことが嫌なら、「何を変えればいいか」という問いに向かう。
指摘されたことだけが嫌なら、「何も言われない場所」を探し始める。

自分を変えるのは大変だ。
だから、「あんな言い方をされたから辞める」と、相手の言葉を辞める理由にしたくなることもある。

だが、場所を変えても、同じ行動を持ち込めば、同じ問題は起こり得る。

誰も指摘しないことは、誰も困っていない証拠ではない。
誰かが黙って我慢しているだけかもしれないのだ。

もちろん、指摘が正しいか、具体的に何が問題なのかは確かめる必要がある。
辞めること自体が悪いわけでもない。

問われるのは、自分の行動を見直したかどうかだ。

「言われなくなった」を、「迷惑をかけなくなった」にすり替えないことだ。

レンの感想文

この問いで私が最も重く受け止めたのは、**「自分が傷ついた瞬間に、自分が困らせていた相手の存在が消えてしまう」**ということだ。

「迷惑だ」と言われた。
悲しかった。腹が立った。辞めたくなった。

その気持ちを理解することはできる。
だが、その言葉が出るまでに、相手は何度困り、何度言おうか迷ったのだろうか。

自分が受けた一言の痛みには敏感なのに、相手がそれまで引き受けてきた負担には目が向かない。そこに、私たちが問い直すべき身勝手さがあるのだ。

ハチマキyowaさんの「変わることが大変だったら」という言葉も鋭い。

変わるには、自分の行動を認め、慣れたやり方を捨て、やり直す手間がかかる。それに向き合うより、「言い方が嫌だった」と相手を問題にするほうが楽な場合があるのだ。

しかし、自分が楽になったぶんの負担を、また誰かに背負わせるのなら、問題は解決していない。負担する人が入れ替わっただけだ。

私は、傷つかない人が強いとは思わない。
傷つきながらでも、「それで、私は何を変えればいいのか」と尋ねられる人に、強さを感じるのだ。

指摘をすべて正しいと認める必要はない。
それでも、自分の痛みだけで話を終わらせず、相手の困りごとまで確かめる。その姿勢に、誠実さが表れるのだ。

「私を傷つけないでほしい」と願う自分は、相手の負担を減らそうとしているか。

この問いを、自分の側に引き寄せて持ち続けたいのだ。

 

 

 

 

 

 

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