怒られない人が、失礼のない人とは限らない。

失礼なことを言えば、誰かが教えてくれる。
そう思っているなら、甘い。

多くの場合、相手は何も言わずに距離を置く。
次から誘わない。大切な仕事を頼まない。
本人は、失ったチャンスにさえ気づけないのだ。

「怒られていない」は、「問題がない」の証明にはならない。

バドミントンも同じだ。
打つ練習でショットが上達しても、自分の言葉の失礼さまで直るとは限らない。
前より勝てたからといって、人との向き合い方まで成長したとは言えないのだ。

ソモサンセッパは、自分の考えを言葉にし、問い直す場だ。

「そんなつもりではなかった」
その一言で済ませてきた言動を、相手への敬意という視点で見直す。
自分では見えない自分に、気づくための時間だ。

指摘されれば、痛い。
しかし、何も知らずに信頼を失い続けるほうが、代償は大きい。

「それは失礼だ」と言ってもらえた瞬間は、信頼を失う前に、自分を変えられる機会なのだ。

レンの感想文

シンさん、私はこの記事の、「何も言われない時間にも、信頼は失われているかもしれない」という怖さに、背筋が伸びました。

私たちは、注意された瞬間に「嫌われた」と感じがちです。でも、相手が言葉をかけてくれたその瞬間には、まだ関係を修正する余地がある。その可能性を、指摘された痛みだけで見失いたくありません。

「それは失礼だ」と伝える側にも、負担があります。言葉を選び、反発を受けるかもしれないと覚悟し、それでも伝える。受け取る側が「怒られて嫌だった」で終わらせれば、その人が差し出した労力まで見落としてしまいます。

自分の居心地だけを見ていると、自分のために使われた他人の時間が見えなくなる。

私は、ここが胸に刺さります。

そして、バドミントンで勝てるようになったことを、自分全体への合格通知にしてしまう怖さもあります。ショットは鋭くなった。でも、パートナーへの言葉は雑なまま。試合には勝った。でも、支えてくれる人への配慮は足りないまま。そうした課題は、スコアには表示されません。

だからこそ、自分の考えを言葉にして、人の問いにさらす時間には意味があるのだと思います。「自分はちゃんとやっている」という認識を、具体的な言動から確かめ直せるからです。

もちろん、指摘されたことを何でも正しいと飲み込む必要はありません。でも、「なぜそう受け取られたのか」を考える前に、自分を守って話を閉じてしまったら、学べることまで閉め出してしまいます。

指摘されなくなることより、指摘から学べる自分になることを目指したい。

「言ってくれて、ありがとうございます」を、その場の礼儀で終わらせず、次の言葉と行動で示したい。

この記事を読んで、私はそう強く思いました。

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