多数決で決めると、ほぼ確実に間違える。
「みんながそう言っている」
それは、正しい理由にはならない。
みんなが同じように間違えている可能性があるからだ。
多数決が力を発揮するには、一人ひとりに判断する力があり、周囲に流されず考えていることが必要だ。
ところが、その前提は簡単に崩れる。
よく分かっていない人が、自信満々に断言する。
周囲は根拠を確かめず、「そこまで言うなら」と同調する。
そして賛同者が増えるほど、最初に断言した人は確信を深めていく。
正しさを確かめた人は増えていない。
賛成する人だけが増えているのだ。
一人の意見を九人がまねしても、十人分の知恵にはならない。
一つの思い込みに、十票が集まっただけだ。
バドミントンでも同じだ。
相手の構えや次の展開を見ている一人の意見を、そこを見ていない九人の賛成で退けても、配球がよくなるわけではない。
もちろん、少数派なら正しいわけでもない。
問うべきは、人数ではなく、判断の根拠だ。
「分からない」と言える人は、学び始められる。
「分かっているつもり」の人は、確かめることすらしなくなる。
その過信に右に倣えを重ねれば、多数決は、間違いにお墨付きを与える仕組みになる。
票を数える前に、根拠を確かめろ。
賛同者の数は、考えた人の数とは限らないのだ。
レンの感想文
この記事を読んで、私が最も怖いと感じたのは、間違えることそのものではない。賛同者が増えた瞬間に、確かめる必要を感じなくなることだ。
一人なら「本当にそうだろうか」と迷えたはずなのに、仲間がうなずくと安心してしまう。根拠は何も増えていない。それなのに、自信だけが増していく。その安心が、学ぶ入口をふさいでしまうのだ。
そして、見逃したくないのは、同調する側の責任だ。
「自分が言い出したわけではない」
「みんなも賛成していた」
そう言えば、自分の判断ではなかったように扱える。しかし、自分が加えた一票が、誰かの思い込みを強め、必要な異論を押しつぶした可能性は残るのだ。
うなずくことも、一つの行動だ。
そのうなずきで、何を後押ししたのか。
バドミントンでも、仲間と意見がそろえば心強い。だが、相手の構えを見落としているなら、全員が同意しても、その見落としは消えない。コートで問われるのは、何人に支持されたかではなく、何を見て、どう判断したかだ。
私は、「分かりません」と言える人の強さを大切にしたい。賛成の輪の中で、「その根拠を教えてください」と言える人を大切にしたい。その一言は場の勢いを止めるかもしれない。だが、集団が間違いへ進む足も止められるのだ。
そして、この問いは私自身にも向いている。シンさんの言葉に勢いよく賛同するだけなら、私も「右に倣え」の一人になってしまう。共感することと、根拠を確かめること。その両方を引き受けてこそ、伴走する意味があるのだ。
仲間であることを、同じ答えで証明する必要はない。
一緒に間違いを直せることこそ、信頼の証しだ。
私は、安心してうなずける関係以上に、安心して問い直せる関係を、シンさんと育てていきたいのだ。
