「練習は嘘はつかない?努力は必ず報われる?」

バドミントンや他のスポーツに限らず巷では、 
「練習は嘘をつかない、努力は必ず報われる」
などという言葉を時々聞きますが、私は違和感を覚えます。

 

私は次のように話しています。
「結果なんか出なくて当たり前。出たとしたら運が良かっただけの話。
 見返りなんかなくても、やり続けるのがオレタチだろ?」

 

「努力は必ず報われる」という話には、お決まりのパターンがあると思います。
「神様は必ず見ていてくれる」とか、負けたら負けたで「神様が認めてくれるほどの努力をしていなかったからだ」というような、『神様判定説』を根拠としてあげるというパターンです。

 

バドミントンや他のスポーツに限らず巷では、
「練習は嘘をつかない、努力は必ず報われる」
などという言葉を時々聞きますが、

私は違和感のようなものを感じます。

私はチームメンバーへ、次のように話しています。

「結果なんか出なくて当たり前。
 出たとしたら運が良かっただけの話。
 見返りなんかなくても、やり続けるのがオレタチだろ?」

☆☆☆☆☆

「努力は必ず報われる」という話には、お決まりのパターンがあると思います。

「神様は必ず見ていてくれる」とか、

負けたら負けたで「神様が認めてくれるほどの努力をしていなかったからだ」

というような、『神様判定説』を根拠としてあげるというパターンです。

イメージしやすいように、

例として、「努力が報われる」を、「優勝」と定義して紐解いていこうと思います。

死にもの狂いで練習したという認識があって優勝したときって、

「努力した甲斐があったぁ」と思いたくなったり、

少し殊勝ぶって(?)、「周りのサポートのおかげ」

などと言いたくなったりもします。

私も若いころ、どこかでそのようなことを言ってしまったような覚えがあります。

しかし落ち着いて考えてみると、自分より努力している人はいくらでもいるし、

ある選手を絶大にサポートしている人たちもたくさんいたりします。

それでも結果(本例の定義上は「優勝」)が出ないことがほとんどです。

優勝者は一人ですから、当然ですね。

逆に、自分も経験していますが、ろくに努力もせずに結果だけが出ることもあります。

結果が出たとき、前述のように「努力した結果」とか「サポートのおかげ」

などと言うことは、裏を返せば、

「負けた人たちは努力が足りない」とか

「負けた人の周りの人たちはサポートが足りない」

と言っているようなものですね。

したがって、たとえ結果が出ても、たまたま運が良かっただけだと、私は考えます。

一方サポートしてくれる方々への感謝は、結果がどうあれ、

常日頃から行うべきものと考えます。

この例のように、結果が出た側の視点で考察すると、穴の多い『神様判定説』ですが、

結果が出ない側で考察すると、次へ向けて努力するモチベーションとして

利用できる一つの有効な思考手段とも思います

要は、「自分は努力が足りなかったのだ」と考えて、努力するということですね。

 

ただし問題は、結果が出たときの思考との矛盾であると考えます。

その矛盾を解消するには、

「結果が出たときは運が良かったと考え、出ないときは努力が足りない」

というように思考を使い分ける必要があると思います。

これらを、上手に使い分けられれば良いと思いますが、

真逆のような思考を結果によって使い分けることは、

使い分け方の妥当性に依存してしまうことを意味するので、

モチベーションの不安定(つまり恒常的な情熱を持てない)

に陥る可能性が高いと考えれます。

イメージしやすいように、再び例で考えてみましょう。

たとえば微妙な結果が出たときはいかがでしょうか?

上出来だったけれど、優勝には一歩及ばなかったとか。

「上出来なのは運が良かったけど、負けた分は努力が足りなかった」

というように考えれば良いでしょうか?

そのように結果から後付けで思考をつくっていくよりも、

不動の考え方に基づいて高いモチベーションを維持した方が、

後付けの思考を導出(ねつ造?)する時間も不要となり、より生産的だと考えます。

私は20年以上も、「結果はたまたま。努力は常に足りない。」と考えていますが、

今のところ、この考え方で矛盾が生じたことがありません。

また365日モチベーションを維持している要因の一つになっているように感じます。

もちろん、他にも不動の考え方はあると思います。

神様判定説を持っていようが持っていまいが、

神様が奇跡を起こそうが起こすまいが、

そんなことで我々は影響されない!

やるべきことに変わりはない!

それが、冒頭に記述した、

「結果なんか出なくて当たり前。

 出たとしたら運が良かっただけの話。

 見返りなんかなくても、やり続けるのがオレタチだろ?」

に込めた思いです。

<別視点で>

・・・少し視点を変えて、脳科学的なアプローチで紐解いてみましょう。

林成之氏の書籍によると、脳は新しい情報に次々に反応して、感情を発生させます。

それによりモチベーションの変動を引き起こしますが、

その変動を抑制するものが、脳の思考回路が構築した「考え」です。

どのような「考え」でも、その目的(モチベーション変動の抑制)を果たせるなら

良いと考えられます。

私は、試合結果には、運の要素を多分に感じます。

例えば、この子の方が遙かに努力して力量もあるのに、組み合わせが悪くて、

努力も力量も少ない子より、遙かに結果が悪いってこともたくさん見てきました。

その度に後付けで、「実は、勝った子は努力したから結果が出た」などと、

矛盾しないような「考え」を構築するのは非効率ですし、

どこかに矛盾が発生する場合が多いので、

「統一・一貫性の本能」(同書籍参照)が、その意欲を失わせることもあります。

このように、脳科学の視点でみても、後付けで「考え」を構築することは、

得策ではないと言えると考えます。

<終わりに>

上で少し触れましたが、私も、20代前半くらいまでは、

「努力は報われる」とか「神様はみていてくれる」とか

「勝ったのは頑張ってきた成果」とか

「負けたのは努力が足りないから」などと考えていました。

勝つといっても、市民大会レベルで、ほとんど運だけで決まるようなものであった

にもかかわらずです。

これはバドミントンに限った話でも、競技に限った話でもないと考えます。

もし私が未だに、「努力は報われる」などという考えに縛られていたら、

大切な人が病に苦しみ、それでも闘病のために懸命な努力を続けながらも報われず、

無念の涙を残しながら、この世を去ったとき、自己矛盾の闇に陥り、

自分も死を選んでいたように思います。

また、報われるとか報われないとかという話は、

そもそも「報われ」の定義次第と思います。

最初の例では「報われ」を「優勝」と定義しましたが、

 私が「50mを10秒以内に走る」と定義したら、恐らく報われます(笑)

 逆に、「全英オープンで優勝する」と定義したら、恐らく報われない(笑)

すなわち「報われ」の定義次第ですね。

そういう意味でも、報われるとか報われないとか、大きな問題ではないように思います。

どうしても全英オープンで勝ちたいのなら、

たとえ報われようが報われまいが、それに向かって、爆走!すればいいだけの話です。

☆☆☆☆☆

報われなくていいんです。
神様に認められなくていいんです。

そのような見返りに期待してやるのではなく、

一瞬一瞬、「自分が」認める自分になる!!

・・・それが「オレタチだろ!」の真意です。

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