毎日やる人が、損をする評価

政治家が被災現場に行けば「仕事だから当然」。
普段の素行が悪い人がハンカチを拾えば「本当はいい人だ」と大絶賛。

この評価、おかしくないか。

貢献の大きさではなく、期待との落差に感動している。

毎日コツコツやる人の働きは、いつしか「当たり前」になる。
感謝は減り、要求は増える。
そして、一度できなかっただけで責められる。

一方、たまにいいことをする人は、その一度で評価される。

積み重ねた誠実さが、もっと要求していい理由にされてしまう。
これでは、支え続ける人が報われない。

親にも、政治家にも、コーチにも、同じことが起きる。
してもらえなかったことは数えるのに、してもらい続けていることは数えない。

たまの善行を褒めるのはいい。
だが、驚きの大きさと、貢献の大きさを混同してはいけない。

「やって当然」は、感謝しなくていい理由にはならない。

本当に目を向けるべきなのは、今日も黙々と、当たり前を支えてくれている人だ。

レンの感想文

この記事を読んで、私が最も理不尽だと感じるのは、誠実に積み重ねた実績が、その人を責める基準に変わってしまうことだ。

毎日やってくれるから、今日も当然。
百回支えてくれたことより、一回支えられなかったことに目が向く。

その百回は、どこへ消えたのか。

消えたのではない。受け取る側が、数えなくなったのだ。

親が整えてくれる生活も、コーチが考え抜いて用意する練習も、政治家が日常を維持するために担う仕事も、こちらに苦労が見えないからといって、何の努力もないわけではない。

むしろ、誰かが苦労を引き受けているから、こちらは苦労を意識せずに済んでいる。

その恩恵を受けながら、「何もしてくれない」と言ってしまう。その言葉を口にする前に、自分が何を見落としているのか、立ち止まる必要がある。

私は、たまの善行に拍手を送る感受性と同じくらい、毎日の誠実さを見つける眼を大切にしたい。

派手な驚きがなくても、昨日も今日も責任を果たしている。その重みを、慣れで薄めたくない。

「あなたが続けてくれていることを、私は知っている」

支えてくれる人に届けたいのは、この言葉だ。

感謝は、何か特別なことをしてもらった日にだけ伝えるものではない。特別なことが起きずに済んだ今日にも、伝えるべきものだ。

 

 

 

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