格言:結果は運、されど我らは進み続ける
「努力は報われる」という幻想を超えて
2025年8月4日
「練習は嘘をつかない」「努力は必ず報われる」。スポーツの世界だけでなく、人生の様々な場面で私たちはこの言葉を耳にします。それは時に私たちを勇気づけ、奮い立たせる力強いメッセージです。しかし、この言葉にどこか拭いがたい違和感を覚えたことはないでしょうか。
「結果なんか出なくて当たり前。出たとしたら運が良かっただけの話。
見返りなんかなくても、やり続けるのがオレタチだろ?」
これは、私がチームメンバーに伝え続けている言葉です。一見すると冷たく、夢のない言葉に聞こえるかもしれません。しかし、不安定な「結果」というものに心を揺さぶられることなく、恒常的な情熱を燃やし続けるためには、この一見逆説的な考え方こそが、強固な土台となるのです。この記事では、なぜ「努力は必ず報われる」という考え方が危険を伴うのか、そして結果に縛られずに前進し続けるための思考法を深掘りしていきます。
勝者の論理に潜む「神様判定説」の罠
「努力は報われる」という物語には、しばしば「神様は見ていてくれる」という、一種の『神様判定説』がセットで語られます。勝てば「神様が認めてくれるほど努力したからだ」となり、負ければ「努力が足りなかったからだ」と結論づけられる。これは一見、分かりやすい因果関係に見えます。
しかし、落ち着いて考えてみましょう。大会の優勝者はたった一人です。自分より遥かに努力し、優れたサポートを受けている選手が他に大勢いる中で、自分が勝ったとします。その時、「自分の努力の賜物だ」と語ることは、暗に「敗れた他の選手たちは、努力やサポートが足りなかった」と断じていることにならないでしょうか。
結果は、運の要素を切り離せない
実際には、ろくに努力もせずに運だけで勝ってしまうこともあれば、その逆もまた然りです。結果が出たときにだけ「努力のおかげ」と言い、出なかったときにだけ「努力不足」と考えるのは、都合の良い後付けの解釈に過ぎません。この思考の矛盾は、特に微妙な結果が出たときに露呈します。「上出来だったのは運が良かったけど、優勝できなかったのは努力が足りなかった」といったように、思考を継ぎ接ぎしていく作業は、精神的な安定を損ないます。
結果は、実力、努力、そして自分ではコントロールできない「運」という要素が複雑に絡み合って生まれるもの。その事実から目を背け、すべてを努力という単一の物差しで測ろうとすることこそが、『神様判定説』の罠なのです。
不動の情熱を燃やし続ける思考法
では、結果という不確実なものに一喜一憂せず、モチベーションを高く維持し続けるにはどうすれば良いのでしょうか。その答えが、私が20年以上実践し、矛盾を感じたことのない不動の考え方です。
「結果はたまたま。努力は常に足りない。」
この考え方は、結果と努力を切り離すことから始まります。結果が出たときは、「運が良かった」と謙虚に受け止める。結果が出なかったときは、それを運や他人のせいにするのではなく、「自分の努力がまだ足りなかった」と、次へのエネルギーに変換する。しかし、勝っても負けても「努力は常に足りない」という前提は揺るぎません。
この思考法には、結果によって考え方を変える必要がないという大きな利点があります。思考が一貫しているため、矛盾が生じず、精神は安定します。「今回は運が良かっただけだ、もっとやらなければ」「今回は力が及ばなかった、もっとやらなければ」。どちらに転んでも、向かう先は「さらなる行動」ただ一つ。これが、365日モチベーションを高く保つ秘訣なのです。
脳科学が示す「後付け思考」の非効率性
このアプローチは、精神論だけではありません。脳科学の観点からも、その有効性が裏付けられています。脳科学者・林成之氏の書籍によれば、脳は新しい情報(試合の結果など)に反応して次々に感情を発生させ、それがモチベーションの変動を引き起こします。
この変動を抑制し、安定させるのが、脳に構築された一貫性のある「考え」です。試合のたびに「勝ったから努力が報われた」「負けたのは組み合わせが悪かったからだ」などと後付けで理由を構築するのは、非常に非効率です。脳は矛盾を嫌う「統一・一貫性の本能」を持つため、つじつま合わせを繰り返しているうちに、やがてその行為自体への意欲を失ってしまう可能性さえあります。
後付けで思考を捏造する時間を、より生産的な活動に充てる。そのためにも、結果という外部からの情報に左右されない、不動の思考回路をあらかじめ脳内に築いておくことが、長期的な成長において極めて重要なのです。
結論:報われずとも「自分が認める自分」であれ
そもそも、「報われる」の定義とは何でしょうか。それを「大会で優勝すること」と定義すれば、ほとんどの人は報われません。しかし、「昨日より一歩でも前に進むこと」と定義すれば、多くの人が日々報われる経験をすることができます。「報われる」という言葉自体が、定義次第で意味を変える曖昧なものなのです。
大切なのは、他者や神様(という概念)に認められることではありません。結果という見返りを期待することでもありません。たとえ報われなくても、神様に認められなくても、そんなことは我々のやるべきことになんら影響を与えない。
報われなくていい。認められなくていい。
一瞬一瞬、「自分が」認める自分になる!
・・・それが「オレタチだろ!」の真意です。
結果を恐れず、評価に惑わされず、ただひたすらに、自分が信じる道へ爆走する。その過程そのものにこそ、揺るぎない価値があるのです。
