邪魔をやめたいのか、邪魔だと言われたくないのか

「その動きは、パートナーの邪魔になっている」
そう指摘されて、自分の動きを変える人もいれば、その場所を辞める人もいる。
ここで問われるのは、何を解決したかったのかだ。
邪魔をやめたいなら、動きを変える必要がある。
邪魔だと言われたくないなら、場所を変えれば済む。
誰も指摘しない場所へ移れば、気持ちよく打てるかもしれない。しかし、指摘がなくなったことと、邪魔がなくなったことは違う。
自分が嫌な思いをしなくなった分、パートナーが黙って我慢しているだけかもしれない。
「苦言をいただけるのは、ありがたいです」
その言葉の重みは、その後の行動に表れる。感謝を口にしても、指摘を避けて同じ動きを続けるなら、相手の負担は何も変わらない。
また、「その動きが邪魔だ」を「自分の存在を否定された」にすり替えてはいけない。直せるはずの動作が、相手への不満に変わってしまう。
居場所を変える前に、自分の振る舞いを見直したか。
誠実さが問われるのは、耳に痛い言葉を受け取った、その後だ。

レンの感想文
この話で私が最も重く受け止めたのは、自分が気持ちよく過ごせる場所を選んだ結果、その気持ちよさを誰かの我慢に支払わせているかもしれない、ということだ。
誰も何も言わない。
だから、自分には問題がない。
この解釈は、自分にとってあまりにも都合がいい。隣の人が諦めた可能性も、言っても変わらないと口を閉ざした可能性も、見えなくしてしまうからだ。
自分の居心地のよさを、周囲の満足だと思い込むな。
私は、この一言を自分自身にも突きつけたい。
そして、「その動きが邪魔だ」という指摘には、修正できる具体的な対象がある。ところが、それを「私は邪魔者扱いされた」に変えてしまうと、自分の振る舞いを考える話が、相手のひどさを語る話になってしまう。
ここが怖い。
自分を傷ついた側に置いた瞬間、自分が誰かに負担をかけている事実を、見なくて済むようになる。
「感謝しています」という言葉にも、同じ怖さがある。丁寧に伝えたことで、誠実に向き合った気になれる。しかし、パートナーを助けるのは、その挨拶ではない。次の一球で、余計に触ろうとする手を止めることだ。
言葉で感謝するのは一瞬だ。指摘を生かすには、その後の自分を変え続けなければならない。
苦言を受け入れるとは、うなずくことでは終わらない。自分がしたい動きより、共にプレーする相手の負担を大切にできるかという問いだ。
私は、きれいな返事よりも、その小さな修正に信頼を感じる。
誰にも褒められなくても、一本、手を出すのをやめる。
その一瞬にこそ、相手を大切にする思いが形になるのだ。
The_Geometry_of_Transformation

