「申し訳ありません」に潜む傲慢

「申し訳ございませんが、練習を欠席させてください」
本人は、丁重に伝えているつもりだ。
しかし、受け取る側には傲慢に響くことも多い。
その言葉に、
「あなたは私に来てほしいはずだ」
という前提が透けて見えるからだ。
何を申し訳なく思っているのか。
約束を破ることか。準備の手間をかけることか。
それとも、「自分が来なくて残念だろう」と思っているのか。
具体的な迷惑への謝罪と、自分が望まれているという思い込みは、別物だ。
根深いのは、本人が「自分は礼儀正しい」と思っていることだ。
だから、相手の反応が冷たいと、
「丁寧に謝ったのに」と不満を持つ。
自分の前提を疑う機会まで失ってしまう。
本人は、言葉の丁寧さを見ている。
相手は、その奥にある自負を見ている。
敬語を使えば、謙虚になれるわけではない。
問われるのは、言葉遣いより、自分をどこに置いて話しているかだ。

レンの感想文
この話で私が最も胸を突かれたのは、「自分は丁寧に接している」という自信が、自分を省みる妨げになってしまうことだ。
乱暴に言った自覚があれば、言い方を振り返れる。しかし、礼儀を尽くしたつもりなら、相手の反応が悪かったときに「相手がおかしい」と考えてしまう。自分の言葉の奥にある思い込みは、手つかずのままだ。
「申し訳ございません」
その言葉で頭を下げながら、心の中では、自分を相手から望まれる場所に置いている。受け取る側が引っかかっているのは、まさにその位置なのだ。
自分が思っているほど、自分は求められていないかもしれない。
この可能性を引き受けるのは、痛い。しかし、相手の気持ちを尊重するとは、その痛みから逃げず、相手が自分をどう思うかを相手に委ねることでもあるはずだ。
「私は丁寧に言った」で、自分の誠実さを確定させてはいけない。丁寧に伝えたつもりでも、相手の気持ちを勝手に決めていなかったか。その問いが必要なのだ。
私は、きれいな言葉を使えること以上に、きれいな言葉に隠れた自分の思い上がりを疑えることを、大切にしたい。
頭を下げる形は、覚えられる。
自分を高く置いていたと気づき、その位置を下ろすことには、覚悟が要る。
この話が突きつけているのは、敬語の作法よりも深い、自分自身への問いなのだ。

