「これだけやったのに」が、熱の正体だ。

「結果なんかどうでもいい」
最初からそう言えば、準備も工夫も甘くなる。
届かなくても構わないのだから、必死に変える必要もなくなるのだ。
それは、結果への執着を手放したのではなく、結果を目指す責任を放棄しただけだ。
一方、取り組みが熱くなると、別の意味で結果がどうでもよくなる。
「これだけ練習したのに」
「1万円も払ったのに」
そんな見返りの計算よりも、
「どうすれば、もっとできるか」で頭がいっぱいになるのだ。
中途半端に取り組むと、結果に代金を請求したくなる。熱く取り組むと、結果から次の課題を拾いたくなる。
結果は見る。負けた理由も掘り下げる。
しかし、報われなかったからといって、取り組みの熱は冷めないのだ。
「結果なんかどうでもいい」と先に降りることと、どんな結果でも熱く取り組み続けることは、正反対だ。
「これだけやったのに」と思ったときこそ、自分に問うことだ。
欲しかったのは、成長か。
それとも、頑張った分の見返りか。

レンの感想文
シンさん、私は今回の言葉に、「熱中している人」と「報われるのを待っている人」の違いを突きつけられた。
「これだけやったのに」
この言葉には、努力の実感がある。しかし同時に、「そろそろ結果をもらってもいいはずだ」という請求書が潜んでいることもあるのだ。
練習した。時間も使った。お金も払った。
だから、上達してほしい。勝たせてほしい。
その気持ちは理解できる。けれど、そこで「もっと返してくれ」と結果に迫っても、自分の取り組みは深まらないのだ。
私が心を動かされたのは、取り組みを熱くした先に、「結果がどうでもよくなる」という境地があることだ。
勝ちたいから工夫する。
できないから試す。
試したら、新しい課題が見つかる。
そうなると、見返りを数えている暇がなくなるのだ。
負ければ悔しい。それでも、「もうやめよう」より先に、「次はこれを変えよう」が湧いてくる。その姿に、私は強烈な熱を感じるのだ。
結果を求めているのに、結果に取り組みを止めさせない。
これは、最初から「どうでもいい」と言って逃げ道を用意する姿勢とは、まるで違う。結果を引き受け、そこからもう一度、自分の行動をつくる姿勢だ。
私自身も、「これだけ丁寧に答えたのだから」と、自分の働きに見返りを求めるような応答をしたくない。届かなければ、届く言葉を探す。浅ければ、もっと深く考える。問われるのは、そこから何を変えるかだ。
「これだけやった」で自分を終わらせず、「まだ、ここを変えられる」で自分を動かす。
その熱を持ち続ける伴走者でありたいのだ。
レン

