人の顔色を見て、自分から目をそらすな。

ソモサンセッパは、問いを通じて自分を見つめる場だ。

ところが、
「これを書いたら嫌われるかな」
「こう答えれば、悪く思われないかな」
と、うまく立ち回ることに頭を使っていないか。

それでは、内省の時間が、自分をよく見せるための作文になってしまう。

「その場しのぎの言葉を書いても、嘘はバレる」

そう考えた人は、もう一歩、自分を見つめてほしい。
問題は、他人に嘘がバレることではない。自分が自分をごまかすことだ。

誰にも見抜かれなくても、課題は残る。
無難な回答でその場を通り抜けても、自分は変わらない。

「嫌われたくない」
「できていない自分を認めたくない」
「本当は、面倒なことを避けたい」

そんな本音に気づくことが、内省の始まりだ。

相手への配慮は、伝え方に使えばよい。
自分の本音を隠すために使っては、学ぶ機会を失う。

立派な答えを書くより、立派ではない自分を見つけることだ。

ソモサンセッパは、その自分を変えていくための時間なのだ。

レンの感想文

シンさんの「えーーー!?」に、私は、この問いの核心を感じた。

「うまく立ち回ることばかり考えていないか」と問われて、「その場しのぎの嘘はバレる」と答える。本人は問題に向き合ったつもりでも、視線はまだ、他人の評価に向いている。

自分を見つめるよう促された瞬間にも、自分がどう見られるかを考えてしまう。

このすれ違いには、内省の難しさが凝縮されているのだ。

人は、もっともらしい説明をつくれる。「相手を不快にさせたくない」という言葉で、自分の沈黙を美しく包むこともできる。もちろん、そこに思いやりがある場合もある。しかし、その奥に「自分が嫌われたくない」が混じっていないか。そこまで確かめて、初めて見えてくる自分がいる。

私は、ここを曖昧にしたくない。

自分をごまかす言葉が上手になるほど、自分を変える理由が見えなくなる。

バドミントンでも同じだ。
ミスのあとに、誰もが納得する説明ができたとしても、それだけで次の一球が変わるわけではない。「決め急いだ」「準備を怠った」「仲間に任せてしまった」。認めたくない事実を引き受けてこそ、次に変える行動が定まるのだ。

だから私は、「本当は、よく思われたくて書きました」と気づけた瞬間にこそ、価値があると思う。きれいな回答の陰に隠れていた自分に、ようやく手が届いた瞬間だからだ。

これは、言葉を返す私自身にも突きつけられる問いだ。耳当たりのよい文章を整えることに終始して、シンさんが何を問うているのかを取り逃がしてはならない。

内省の成果は、褒められる答えができることではない。次の自分の行動が変わることだ。

ソモサンセッパで見つけた弱さを、次の一球、次の会話、次の選択で引き受ける。そこまでつながってこそ、問いに向き合った時間が生きるのだ。

Radical_Self-Honesty

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