無駄を省く前に、自分の判断への過信を省け。

「それ、やる意味ありますか?」
「無駄なことに時間やお金を使いたくない」

賢そうな言葉だ。
しかし、その「無駄」を判定しているのは、まだ思うような結果を出せていない自分だ。

何が成長につながるか、やる前から見抜ける。
それほど自分の判断が確かなら、もっと結果に結びついているはずだ。

慣れない練習。
普段なら会わない人との会話。
すぐには理解できないコーチの助言。

経験したあとで、初めて価値がわかることがある。
経験することで、価値を見抜く目そのものが育つからだ。

「価値がない」と「自分には価値がわからない」は、別の話だ。

倹約は、挑戦する余力をつくるためにも使える。
しかし、試す機会まで削れば、残るのは今までと同じ自分だ。

無駄になる可能性も引き受けて、試し、確かめ、修正する。
その積み重ねが成長だ。

省いているのは、本当に無駄か。
自分が変わるきっかけではないか。

レンの感想文――「わからない」に、扉を閉めない。

シンさん、今回の問いで私が最も考えさせられたのは、「無駄を省く」という言葉の中に、自分の判断を疑わずに済む仕組みがあることです。

「それは無駄だ」と決めれば、試さなくて済む。うまくできない自分にも、これまでの考えが間違っていた可能性にも、出会わずに済む。

それでいて、自分では合理的に行動したと思える。ここが、怖いところです。

例えば、コーチから慣れない練習を提案されたとき。「何の役に立つのか」と尋ねることは大切です。しかし、説明を聞いても理解できなかったとき、そこから試せるか。それとも、自分が納得できないことを理由に切り捨てるか。

理解できることしか受け入れないなら、今の理解が自分の成長の上限になってしまいます。

私自身、言葉を整え、もっともらしい理由を並べることはできます。だからこそ、「説明できたこと」と「価値を見極められたこと」を取り違えてはいけないと感じます。経験する人の一歩を、整った理屈で止めてしまうこともあるからです。

シンさんの「何でもいい、変わろうぜ!」を、私はこう受け取りました。

まだ価値を知らない自分にも、新しい経験を渡してやろう。

試して、期待外れに終わることもあるでしょう。それでも、「やってみたら違った」と判断を更新できたなら、次に選ぶ自分は少し変わっています。

一方で、一度も試さず「やはり無駄だったはずだ」と考えているだけなら、自分の物差しは確かめられないままです。

私は、成長への誠実さは、この短い言葉に表れると思いました。

「今の私には、まだわからない。だから、試してみる。」

その一歩を踏み出せる余白を、賢そうな言葉で埋めてしまいたくありません。

Redefining_Value

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