その「おめでとう」、計算済み? – SNSの“祝福ごっこ”と損得勘定
チームのLINEグループやSNS。誰かの誕生日や大会での入賞報告があれば、「おめでとう!」のスタンプやメッセージが怒涛のように押し寄せます。よく見る光景ですね。誰かが口火を切れば、あとは思考停止したかのように同じ言葉が並びます。まるで、押せば鳴るボタンみたいではありませんか。
条件反射で「おめでとう」、でも心はどこにあるのでしょうか?
でも、少し立ち止まって考えてみてください。その連鎖する「おめでとう」、どれだけ心がこもっているでしょうか? そして、その祝福の輪は、どこまで広がっているでしょうか?
例えば、こんな場面です。
- ケース1: ライバルチームが大きな大会で優勝したというニュース。タイムラインに流れてきても…「へー(無関心)」。スルーします。
- ケース2: 少し前にチームを抜けた元メンバーが、新しい環境で活躍しているらしい。風の便りに聞いても…「ふーん(他人事)」。やはりスルーです。
なぜ、身内への祝福は高速連打なのに、コミュニティの外の出来事にはこうも冷淡なのでしょうか? 簡単な話です。「お礼」が直接返ってくる期待値が低いから。「あの時お祝いしましたよね?」という貸し借りの関係が生まれないからです。つまり、自分にとって「得」になりません。実に合理的で、クールで、効率的な判断です。…いや、これではただの「損得勘定」丸出しではありませんか?
「温かい世界」は理想論? それとも…
直接的な見返りがなくても、どこかの誰かが、別の誰かの幸せや成功を「おめでとう」と素直に願っています。そんな空気感は、確かに心地いい響きがあるはずです。逆に、「言ってもムダ」「自分には関係ない」という計算高さや線引きが透けて見えるコミュニティは、正直、少し寒々しいです。まるで、点を取られた相手に絶対に拍手しないような、そんな狭量さにも似ています。
で、私たちはどちらを選びますか?
さて、翻って自分たちのチームはどうでしょうか? 温かい拍手を送る側でしょうか、それとも冷たい計算をする側でしょうか。選ぶのは、いつだって自分自身です。
ただ群れて安心し、「おめでとう」を連呼するだけの関係性で満足しますか。それとも、たとえ直接的な見返りがなくても、ライバルの健闘を称え、去った仲間の成功を喜び、純粋に他者のポジティブな出来事を祝福できる、そんな懐の深さを持つでしょうか。
「温かい世界」なんて待っていても来ません。まず、その計算高い自分自身の心に気づくことです。そして、ほんの少しだけ、その輪の外にも目を向けてみましょう。
…まあ、それが面倒でしたら、今まで通り、仲間内の「おめでとう」コピペに勤しむのも自由ですが。