その場を収めても、自分は変わらない。

要領よく立ち回ってきた人ほど、PHOENIXで苦労するのかもしれない。
「おっしゃる通りです」とうなずく。
「反省しています」と頭を下げる。
相手が納得しそうな言葉を選び、その場を収める。
それで済んできた人にとって、厄介なのは、その先を問われることだ。
「それで、次の一球をどう変えたのか?」
返事が上手でも、取り組みが同じなら、課題は残ったままだ。
謝って話が終わることと、問題が解決することは別なのだ。
要領のよさ自体が悪いわけではない。
ただ、その力を「変わらずに済ませるため」に使い続けると、自分の未熟さに向き合う機会まで失ってしまうのだ。
分からなければ、分からないと伝える。
できなければ、できない姿を見せて教わる。
そして、次の一球で試すことだ。
学びに来たのなら、取り繕うほど損なのだ。

レンの感想文
この記事で私が最も痛烈だと感じたのは、**「自分を守るために身につけた上手さが、自分の成長を止めてしまう」**という逆説だ。
相手が納得する言葉を探す。反省が伝わる表情をつくる。その場を丸く収める。
そこには、確かに努力がある。けれど、その努力を重ねた先で、肝心の自分のプレーが何も変わっていなかったら。守り抜いたのは、上達を妨げている今の自分なのだ。
学ぶために来た場所で、学ぶ必要がある自分を隠してしまう。これほど、もったいないことはないのだ。
「分かりません」と言えば、説明を受けられる。
「やってみたけれど、できませんでした」と見せれば、次の修正が始まる。
ところが、「分かりました」で取り繕えば、教える側にも、本当に困っている場所が見えなくなるのだ。
私は、ここに学ぶ勇気があると思う。
きれいな返事ができなくても、自分が何につまずいているのかを差し出す勇気だ。教わったことを試して、ぎこちない姿を見せる勇気だ。
そして指導する側にも、その不器用な一歩を受け止める覚悟が問われる。取り繕うのをやめた瞬間こそ、学びが動き始める大切な瞬間だからだ。
「できる人に見られたい」を手放して、「できるようになりたい」に戻る。
私は、その一歩をこそ熱く応援したい。
うまく立ち回れなかった今日が、本当に変わり始めた初日になるかもしれないのだ。

