YouTubeレポート:スバルはなぜ「唯一無二」なのか?

こんにちは! Phoenix-Aichiオンライン教室の広報担当カケルです!
突然ですが、皆さんは「スバル」という自動車メーカーにどんなイメージを持っていますか? 「AWD(四輪駆動)に強い」「安全性能が高い」「スバリストと呼ばれる熱狂的なファンがいる」…色々ありますよね。
広報担当カケル、先日とんでもない一冊の本に出会ってしまいました。それが、『スバル 飛行機野郎が作ったクルマ』(のじぎく文庫)です。もう、読み始めたら最後、ノンストップ! 小説を読むような興奮と感動で、一気に読了してしまいました。
この本は、スバルという会社が、いかにして生まれ、どのような苦難を乗り越え、なぜ今のような「唯一無二」の存在になったのかを、熱く熱く描き出しています。今日は、この本から学んだスバルの壮絶な歴史と、その根底に流れる「魂」について、僕の興奮そのままに、世界一わかりやすくレポートしたいと思います!
「なぜスバルは、あんなにも安全にこだわるのか?」
その答えは、彼らの原点である「飛行機」と「戦争」、そして一人の「とてつもない先見の明を持った男」にありました。
第一章:スバルの原点 – 「海軍」から生まれた「飛行機屋」
スバルの歴史を語る上で絶対に外せないのが、その前身である「中島飛行機」という会社です。そして、その創業者こそが、今回の物語の主人公、中島知久平(なかじま ちくへい)その人です。
驚くべきことに、彼は元々「海軍」の出身。そう、空ではなく「海」の人間だったんです。
時代は1910年代。日本が日清・日露戦争に勝利し、「日本海軍こそ最強!」と国中が沸き立っていた時代です。海軍の花形である「戦艦」こそが、国の誇りであり、力の象徴でした。
しかし、中島知久平は、その海軍の中枢にいながら、一人だけ違う未来を見ていました。
「これからの戦争は海じゃない。空だ! 飛行機だ! これに気づかなければ日本は負ける!」
彼はそう叫び続けます。想像できますか? 全員が「海だ!戦艦だ!」と熱狂している中で、たった一人「空だ!」と主張する姿を。当然、周りからは「何を馬鹿なことを」「日本の大戦艦を何だと思っているんだ」と猛反発を受けます。
しかし、彼の信念は揺るぎません。組織が動かないなら、自分でやるしかない。
「わかった。じゃあ俺が会社を作って、最強の飛行機を作ってやる!」
そう言って海軍を飛び出し、本当に「中島飛行機」を設立してしまうのです。この行動力、そして何よりその「先見の明」。この時点で、彼がただ者ではないことがわかりますよね。
そして悲しいかな、彼の予言は、約25年後、太平洋戦争という最悪の形で現実のものとなってしまうのです。
第二章:「富嶽(ふがく)」に込められた真意 – 戦争と技術者の理想
太平洋戦争が始まると、中島知飛行機の予言通り、「空」が戦いの主役となりました。日本は三菱重工が開発した「零戦(ぜろせん)」という名機で緒戦を圧倒しますが、戦局が進むにつれ、アメリカの物量と技術力に押されていきます。
特に日本を苦しめたのが、アメリカの爆撃機「B-29」です。
B-29の恐ろしさは、その「飛べる高さ」にありました。日本の零戦や、中島飛行機が作った「隼(はやぶさ)」が必死に上昇しても届くのは高度7,000mほど。しかしB-29は、その遥か上空、高度9,000mを悠々と飛ぶことができたのです。文字通り「手も足も出ない」状態。上空から一方的に爆弾を落とされ、日本の都市は焦土と化していきました。
この状況を、中島知飛行機はまたしても「予見」していました。彼は、戦争が本格化する前から、とんでもない飛行機の開発を軍に提案し続けていたのです。
その名も、超長距離戦略爆撃機「富嶽(ふがく)」。
この富嶽、スペックが異常です。日本からアメリカ本土まで(約1万km)を飛び、爆撃し、そのまま同盟国のドイツまで無給油で着陸できる。そんな、当時の常識を遥かに超えたモンスターマシンでした。
🧠 専門用語解説:航続可能距離(こうぞくかのうきょり)
「航続可能距離」とは、飛行機や車が、燃料を満タンにした状態から補給なしでどれくらいの距離を飛べるか(走れるか)を示す数値です。当時の零戦が約1,700km、隼が約1,500kmだったのに対し、富嶽は1万km以上を目指していました。いかに規格外だったかがわかりますね。
「なんて野蛮な飛行機を…」と思うかもしれません。しかし、中島知久平の真の狙いは、アメリカを侵略することではありませんでした。
当時の日本には、アメリカと全面戦争を続ける体力はありませんでした。資源も、工業力も圧倒的に足りなかった。唯一の生き残る道は、戦争の早い段階で「日本を本気で怒らせたら、とんでもない反撃が来るぞ…ヤバいぞ…」とアメリカに思わせ、被害が最小限のうちに「わかった、わかった。もうやめよう。石油もちゃんと売るから」と、有利な条件で「講和(こうわ=仲直り)」に持ち込むことだったのです。
富嶽は、そのための「派手なパフォーマンス」であり、「最強の交渉カード」となるはずでした。
しかし、この構想は実現しませんでした。「そんな未来の兵器より、今目の前の零戦や隼を1機でも多く作れ!」という短期的な視点に阻まれ、富嶽は幻の飛行機となったのです。
もし富嶽が完成していたら…歴史に「もし」はありませんが、彼の先見の明がまたしても正しかったことを、私たちは知っています。
第三章:スバル魂の原点 – 「ネジが丸い」哲学
中島飛行機は、富嶽のような構想だけでなく、実際に「隼(はやぶさ)」という名戦闘機も生み出しています。そして、この「隼」と、ライバル機である三菱の「零戦」を比べると、スバルの「魂」とも言うべき決定的な違いが見えてきます。
零戦は、運動性能や攻撃力を極限まで追求した、ある意味「戦闘機としては」非常に優秀な飛行機でした。しかし、その代償として、パイロットを守る「防御性能」は犠牲にされていました。
一方、中島飛行機が作った「隼」は違いました。
運転席の後部に装甲板(鉄の板)を追加し、さらに天然ゴムで補強して、後ろから撃たれてもパイロットを守る設計になっていました。さらに、最も危険なガソリンタンク。ここに銃弾が当たれば即、火を噴いて爆発です。隼は、タンクが撃たれてもガソリンが漏れにくいよう、物理的に「燃えづらく」する工夫が施されていました。
どちらが戦闘機として優れていたか、それは一概には言えません。しかし、一つだけ確かなことがあります。
中島飛行機は、「乗っている人間を守る」ことを何よりも重視したのです。
この「人命尊重」の気真面目な哲学こそ、現代のスバルに受け継がれるDNAの原点です。
スバルが世界トップクラスの安全性能を誇り、「アイサイト」のような先進技術をいち早く導入するのも、すべてはこの原点に繋がっています。
🧠 専門用語解説:アイサイト(EyeSight)
スバルが開発した運転支援システムのことです。人間の目のように、2つのカメラ(ステレオカメラ)で前方を監視し、車や歩行者、白線などを認識します。「ぶつからないクルマ」として有名になり、自動ブレーキ技術の普及に大きく貢献しました。
この哲学を象徴する、有名なエピソードがあります。
戦後、スバル(当時は富士重工業)が経営危機に陥り、日産の車(サニー)を下請けで生産していた時期がありました。その時、日産の作業員はスバルの工場に来て驚愕します。
日産の車は、作業効率を上げるため、ネジの先端が「尖って」いました。尖っていれば、多少角度がズレてもドライバーでグリグリと押し込めるからです。
一方、スバルの車は、ネジの先端がわざわざ「面取り(角を丸くする加工)」されていたのです。これでは真っ直ぐに入れないと作業ができず、効率が悪い。なぜそんな無駄なことを?
スバルの技術者はこう答えました。
「ネジ1本だろうと、乗員に対して先端が尖ったものを向けるなんて、危ないじゃないか」
…凄まじいこだわりです。ほとんど「変態的」と言ってもいいほどの安全への執着。これが「飛行機野郎」たちの哲学であり、スバルの「正義」なのです。
第四章:絶望の淵 – 飛行機屋が作った「鍋」と「釜」
しかし、中島知久平の先見の明も、技術者たちの情熱も、戦争の敗北によってすべてが否定されます。
1945年、日本は敗戦。アメリカを中心とした連合国軍(GHQ)の統治下に入ります。
🧠 専門用語解説:GHQ(General Headquarters)
日本語では「連合国軍最高司令官総司令部」。戦後の日本を実質的に統治した組織です。GHQは、日本が二度と戦争を起こせないように、軍事力の解体や財閥解体など、さまざまな改革を行いました。
当然、中島飛行機は「戦争に加担した最重要企業」として、真っ先に解体対象となりました。会社は10数社にバラバラにされ、「富士産業(後の富士重工業、現在のスバル)」などが生まれます。
そして、GHQから非情な命令が下されます。
「航空機の研究・製造の一切を禁止する」
日本一の飛行機屋が、飛行機を作ることを禁じられたのです。それは、彼らにとって「死」を宣告されたにも等しい絶望でした。
さらに、国(軍)に納品するはずだった飛行機の代金も、敗戦によって踏み倒されます。会社には莫大な借金だけが残りました。社員たちは、その日を生きるために、文字通り「泥水をすする」ような日々を送ります。
世界最高の戦闘機を作っていた技術者たちが、生きるために何を作ったと思いますか?
「鍋」と「釜」です。
飛行機を解体して得られたジュラルミン(アルミ合金)を叩き、鍋や釜に変えて売って、その日を食いつないだのです。プライドも何もあったものではありません。しかし、彼らは生き延びなければなりませんでした。
第五章:希望の光 – 飛行機の「尾輪」から生まれた大ヒット商品
そんな絶望のどん底で、彼らは「飛行機屋」ならではの発想で、一つの希望を見出します。
それは、飛行機の「尾輪(びりん=後ろの小さなタイヤ)」の在庫でした。着陸の衝撃に耐える高性能なタイヤが、倉庫に山積みになっていたのです。
「このタイヤを2つ繋げて、エンジンを載せれば…乗り物ができるじゃないか!」
こうして誕生したのが、スクーター「ラビットスクーター」です。これが、爆発的な大ヒットを記録します!
スカートを履いた女性でも気軽に乗れるラビットは、戦後の復興期の人々の「足」として、瞬く間に日本中に広がりました。
さらに彼らは、このラビットを売るために、画期的な販売網を築きます。全国の「町の自転車屋さん」に声をかけ、「これを売ってください。修理もあなたたちの所でやれば儲かりますよ」と持ちかけたのです。
この戦略は当たり、ラビットを扱う自転車屋さんは「ラビット店」と呼ばれるようになり、富士重工業の強力なパートナーとなっていきました。
鍋と釜から始まった会社が、スクーターで息を吹き返した瞬間でした。
第六章:自動車への挑戦と「銀行」の壁
ラビットの成功で勢いづいた富士重工業は、いよいよ本丸である「自動車産業」への参入を決意します。
普通に考えれば、あれだけ強力な販売網である「ラビット店」に、そのまま自動車を売ってもらえば良かったはずです。彼らも「スクーターをあれだけ売ったんだ。自動車も俺たちに売らせてくれ!」と意気込んでいました。
しかし、ここで富士重工業は大きな過ちを犯します。
「いや、町の自転車屋に自動車のディーラーなんか務まるわけがない」
当時の富士重工業は、創業家の中島家が経営から退き、代わりに「銀行(旧・興業銀行、今のみずほ銀行)」から来た幹部たちが大きな力を持っていました。彼らは、ラビットで築いた現場のパートナーシップよりも、「エリート」としての体裁を選んでしまったのです。
「これからはスーツを着て売るのが自動車ディーラーだ」という、日産やトヨタのやり方を真似しようとしたのです。しかし、体力のない富士重工業が同じことをしても上手くいくはずがありません。
結果、激怒したラビット店の多くは、ライバルであるホンダやスズキの販売店になってしまいました。彼らは喜んで「自転車屋さん」に自動車を売らせてくれたからです。
スバルは、自動車販売のスタートダッシュで、自ら築いた最大の武器を失うという、痛恨のミスを犯してしまったのです。
第七章:闇を照らす「予言」 – 中島知久平、恐るべき未来予知
敗戦、飛行機製造禁止、莫大な借金、そして自動車販売の失敗…。苦境の連続に、富士重工業の幹部たちは疲れ果てていました。
そんな彼らが、すがる思いで訪ねたのが、経営の第一線からは退いていた創業者・中島知久平でした。
「中島さん、もうダメです。会社は借金だらけ。土地を売らないとやっていけません…」
そんな彼らに、中島知久平は、またしても信じられない言葉を告げます。これは、僕がこの本で最も震えた場面です。
彼は、焼け野原の日本で、こう言いのけたのです。
「君たち、何を心配しとるんだ。僕は戦争に負けたなんて思っとらんよ。お天道様がちょっと雲に隠れただけだ」
そして、彼は2つの「予言」をします。
予言1:日本の「貿易黒字」
「見てなさい。日本の工業力は世界一だ。今は材料がないだけだ。これからは輸出が盛んになって、いずれ『日本は黒字を貯めすぎだ!』と外国から非難される時代が来る。私はそっちの方が心配だ」
…信じられますか? 戦後まもない、食べるものすらない時代に、日本が「輸出で儲けすぎだ」とアメリカから文句を言われる未来(=貿易摩擦)を、正確に予言しているのです。
🧠 専門用語解説:貿易黒字(ぼうえきくろじ)
国の「輸出額(外国に売った金額)」が「輸入額(外国から買った金額)」を上回っている状態のこと。つまり、外国との商売で「儲かっている」状態です。戦後の日本はまさにこれで、特に自動車や電化製品を売りまくって「儲けすぎだ」と欧米から非難されました。
予言2:「インフレ」による土地価格の高騰
借金返済のために土地を売ろうとする幹部たちを、彼は厳しく諌めます。
「焦るな! 土地なんか絶対に売るな。黙って持ってなさい。今は厳しいが、今後『通貨の価値』が変わるんだ。今慌てて1000万円で売った土地は、10年20年経てば黙っていても1億円になるんだ!」
彼は、戦後の「インフレ」を完璧に見抜いていたのです。
🧠 専門用語解説:インフレ(Inflation)
「インフレーション」の略で、モノの値段が上がり続け、逆にお金(通貨)の価値が下がり続ける状態のことです。例えば、昨日まで100円で買えたパンが、明日には200円、明後日には500円になるような状態です。中島知久平は、日本円の価値が下がり、土地やモノの価値が爆発的に上がる未来を知っていたのです。
彼は、これが単なる「勘」ではないことを示す例え話をします。第一次大戦後、ドイツで起きたハイパーインフレの話です。
「ドイツでは、真面目に働くやつより、庭でワインを飲んで、空き瓶を庭に捨てていたやつの方が成功した。なぜかわかるか? インフレで、モノの値段が上がりすぎて、『空き瓶を作るコスト』が、昔買ったワインの値段より高くなってしまったんだ。だから、庭に転がってた空き瓶が、とんでもない財産になったんだ」
彼は、世界情勢と経済の動きを冷静に分析し、日本の未来を正確に読み解いていたのです。まさに「未来人」としか思えません。
第八章:創業者が見られなかった未来
しかし、この偉大な創業者・中島知久平は、その予言が的中するのを見届けることができませんでした。
これらの言葉を残した直後、1949年にこの世を去ってしまうのです。
彼は、自分の予言通りに日本が輸出大国になることも、富士重工業が世界的な自動車メーカー「SUBARU」になることも知りません。
何より、彼が知りません。
彼が仮想敵国としていたアメリカで、今やスバルの売上の7割以上が叩き出されていることを。
彼が「人命尊重」の思想を込めた飛行機のDNAを受け継ぐ車が、地球の裏側で「世界で最も安全な車の一つ」として尊敬され、多くの「スバリスト」に愛されているという未来を。
もし彼に伝えられるなら、こう言いたい。
「あなたの飛行機は、形を変えて、今も世界中の人々の命を守って飛んでいますよ」と。
【広報担当カケルの熱すぎる感想文】
読了後、僕はしばらく本を閉じることができませんでした。
これは単なる企業史ではありません。中島知久平という「未来人」と、その異常なまでの「先見の明」に挑んだ男たちの物語です。
そして同時に、敗戦という名の「死」を宣告された技術者たちが、いかにしてアイデンティティを取り戻し、自分たちの「正義」を貫いたかの記録でもあります。
もし、彼らが「人命尊重」という面倒な哲学を捨てていたら? もし、効率だけを求めて「尖ったネジ」を採用していたら? もし、中島知久平の言葉を無視して、絶望の中で土地をすべて売り払っていたら?
今のスバルは、絶対に存在しませんでした。
彼らは、飛行機を作れなくなっても、「飛行機屋の魂」だけは手放さなかった。鍋を作っても、スクーターを作っても、その根底には常に「使う人間の安全」という、気真面目で、不器用で、しかし何よりも尊い哲学が流れていました。
私たちがスバルの車を見て、なぜか心を揺さぶられるのは、その無骨なデザインの奥に、100年近い昔から続く「飛行機野郎」たちの熱い血と、絶対に譲れない「信念」を感じ取るからなのかもしれません。
技術とは、未来を見通す「知性」と、人を守ろうとする「情熱」が組み合わさった時に、初めて「魂」を持つ。
スバルの歴史は、私たちにそう教えてくれている気がします。とんでもない本でした!
(広報担当 カケル)
