陰の努力こそ最善なのか?
一般的に、「努力は見せびらかすものではない」と言われたり、「陰の努力」が美徳とされていると思います。
果たしてそれは、強くなることを目的とした場合において、必ずしも最善なのでしょうか?
今回は、それを考えようと思います。
そもそも陰の努力とは
努力を見せびらかさず、陰で努力する、とは一体どのようなことか?
少し具体化してみましょう。
代表的な例では、
ある試合を目標にしている選手が、ライバルに見られないところで、こっそり練習し結果を出すといったシチュエーションがあげられると思います。
また、人目につくところでは、チャランポランにみえる主人公が、実は、陰で誰よりも努力していることがわかり、チームメンバーが心酔していく・・というような漫画もあったと記憶しています。
これらをどのように感じますか?
影の努力は狭い了見
努力を見せびらかさないということは、自分さえ強くなれればそれでいいという視野の狭い了見に基づいているように感じませんか?
実は以前の私も、美徳目的ではありませんが、努力は陰で行うべきと考えていました。
努力をみせることは、ライバルの意欲を高めることにつながり、それは勝つことに対して「マイナス」であると考えていたのです。
弱肉強食が生物のあるべき姿というようなイメージでした。
しかし今は違います。
一般的な人が経験できることを遥かに超える多くの経験を経た結果、
「周りがあるから自分がある」
「自分一人では強くなれない」そして
「周りが強くなることで、自分も成長できる」
という境地を理解できたからです。
(「周りが強くなることで、自分も成長できる」という考えは、おそらくすんなり受け入れられると考え、今回はその傍証を割愛します)
努力を見せびらかすことは互いを成長させる
一部繰り返しになりますが、今の私は大きくわけて二つの理由により、努力を見せびらかすことは、自分を成長させることと考えています。
- 努力をみせることで、それをみたひとの意欲を高める
- 努力内容と結果をみせることで、今後の人たちが何を努力すべきかを考案する上での試金石となる
互いを成長させる理由
これらがなぜ自分の強さにつながるかというと、以前も述べましたが、以下のとおりです。
一つ目の「努力をみせることで、それをみた人の意欲を高める」は、
周りの意欲が上がる⇒周りが強くなる⇒自分も強くなる 単純な図式です。
二つ目の「努力内容と結果を見せることで、今後の人たちが何を努力すべきかを考案する上での試金石となる」は、少しわかりにくいかもしれないので、人類がどのように成長してきたか、まで拡張して考察を進めます。
人類は文字を残すことを覚えてから文明を大きく発展させました。
人間一人の考えはたかが知れていて、歴史から学ぶことで、人類は大きく進化しました。
インターネットの普及で思考の進化が圧倒的に加速しているのをみても、それは明らかですね。
努力内容と結果という情報を残すことは、(良い結果であっても悪い結果であっても)それをみた人の学びにつながります。
つまりそれは、周りを強くすることにつながり、一つ目と同様、自分も強くなるということになります。
より多くの人に見せびらかすことで効果が最大化
このように考えることができると、次の答えを導出できます。
『より多くの人に見てもらうことで、一つ目、二つ目ともに効果が高まるため、「積極的に見せる努力をすべき=つまり見せびらかすべき」』。
見せびらかしの程度問題
さらに一歩すすめて、見せびらかしの程度についても考察してみましょう。
つまり、見せびらかす(つまり積極的に見せる努力をする)べきなのか、隠すことはしない程度が良いのか です。
具体例による考察
これも具体的な例をあげて考察をすすめます。
「隠すことはしない程度」とは、以下のような事象を発生させます。
たとえば陰で努力している人がいたとして、その努力をたまたま見かけた人が、情熱を手にできたとしましょう。
それ自体は非常に素晴らしいことだと思います。
しかしその逆もあります。
そのような幸運を持っていない人は、数十秒違いで、情熱を手に入れる機会を逃すこともありますよね。
また、まったくやる気のない人が、たまたま幸運に恵まれ、正しい努力方法を手に入れることもある一方、情熱はあるが努力の方向を間違えている人が、数十秒違いで、それを目にできず、手に入れられないこともあるでしょう。
上で述べた一つ目、二つ目の効果を最大化するためには、運任せではなく、誰にでも平等に機会が与えられた方が、より多くの人に情熱が伝わるのではないでしょうか?。
つまり論理的に考えて、努力を積極的に見せにいった方が、成長できる確率が高まると言えます。
また、感情論で考えても、情熱や正しい努力を手にいれる機会は、万人とって平等に与えられ、それをどう生かすかは、受け取る側の器次第であって欲しいなと、私は思いますが、いかがでしょうか?
まとめ
以上より、今回の命題に対する私の意見は、「努力は見せびらかすべき」となり、これを皆さんに伝えています。
脳科学的な観点からの傍証
林成之先生の著書を読むと、脳科学的にも傍証することが可能となります。
参考記述しておきます。
「一つ目」の効果に対する傍証
上記一つ目の効果は、「同期発火」を狙ったものと言えます。
同期発火とは、異なる脳神経細胞の活動が同時に起こる現象で、神経回路がつながっていなくても情報が伝達されるため、周囲の人たちの脳とも反応しあう現象です。
これにより、脳は判断力を高め、力を発揮すると言われています。
極端な例を考えてみればわかるかも知れません。
仮に、全員が密室のようなところでのみ努力を行い、誰の目にも触れさせないということを行ったらどうなるでしょう?
脳は他人の脳と一切同期発火することもなくなります。
脳は、相手がいることで力を発揮しますので、これでは全ての脳で、力が発揮されなくなります。
それは決して、強くなるための最善策とは言えません。
逆に、見せびらかした場合を考えてみましょう。
指導者の努力している姿をみて、被指導者がやる気になったり、逆に被指導者が努力している姿をみることで、指導者が「何とかしてやりたい」とやる気になることもあるでしょう。
また、自分の努力をライバルがみることで、ライバルの意欲がさらに向上することも考えられます。
その結果どうなるでしょう?
必然的に、周りのレベルが上がります。
従来、私は、これを防ぐために、「努力は見せるべきではない」と考えていました。
でも今は違います。
脳は相手がいることで、力を発揮することを理解しています。
相手の脳に力があるほど、自分の脳は力を発揮する、と考えています。
つまり、周りのレベルが上がれば、自分のレベルが上がる。
努力を見せないということは、この向上代を放棄しているとも言えると考えています。
以上より「一つ目」に対して、努力は見せびらかすべき、と結論づけられます。
「二つ目」の効果に対する傍証
二つ目は、「統一・一貫性の本能」の才能を伸ばすことを狙っているもの、と考えられます。
脳は、正しいと思うことを統一・一貫性の本能で取捨選択し、自我の本能により、自分で成し遂げようという気持ちを発生させると言われています。
しかし、どの努力方法が正しいかは必ずしもわからず、やってみないとわからないことが多いと思います。
上でも書いたように、人間一人の知見だけに基づいて、取捨選択をするより、先人が得た知見も利用することで、正しいかどうかの判断力(すなわち「統一・一貫性の本能の才能)を高めることはできると考えます。
人類の歴史が物語っていますから。
以上より「二つ目」に対しても、努力は見せびらかすべき、と結論づけられます。
おわりに
ご存知のように、バドミントンを含めスポーツの領域では、まだまだ知見が残されている状態とは言えないと思います。
テレパシーが無い前提で述べると、知見として残すには、言葉にする必要がありますが、ヒデが言っている「感覚をできる限り言葉にして伝える」ということも、できる人はほとんどいませんし、そもそも膨大な経験(試合の一瞬一瞬をどのように考えてプレーしたかとか、どのような練習をしてきたかとか・・・)を言葉として残している人はほとんどいません。
我々は微力ですが、このように少しでも意見を残し、知見を残していきましょう。
そうそれが、「力を合わせて上達する」ということです。